歴代名補手と言えば誰か。
プロ野球の歴史上で多くの名捕手と呼ばれる選手が生まれてきたが、やはりこの方を外すことはできないでしょう。
今やボヤキのノムさんと呼ばれるようになった「野村克也」。
選手時代に残した成績もレジェンド級ですが、監督としても多くの功績を残された方です。
そんな野村克也は、実績だけでなく、数多くの「名言」も残しています。
今日は、野村克也の現役時代や監督時代の凄さを改めて振り返りつつ、野村克也の名言をまとめてみました!
歴代名補手 野村克也の基本情報と経歴

京都府出身。
82歳(2018年5月時点)
身長175cm、体重85Kg
<選手歴>
京都府立峰山高等学校→南海ホークス(1954-1977)→ロッテオリオンズ(1978)→西武ライオンズ(1979-1980)
<監督・コーチ歴>
南海ホークス(1968-1977)→ヤクルトスワローズ(1990-1998)→阪神タイガース(1999-2001)→シダックス→東北楽天ゴールデンイーグルス(2006-2009)
<主な記録>
○戦後初の「三冠王」かつ、世界のプロ野球史上初の捕手の三冠王。
○選手出場試合数歴代2位。
○監督出場試合数歴代3位。
○通算本塁打数歴代2位。
○通算安打数歴代2位。
○通算打点数歴代2位。
○通算犠飛数歴代1位。
○パ・リーグ通算打席数1位。
もの凄い記録ばかり。。
ノムさんの記録がここまで凄いとは知らなかったです。(笑)
監督時代において、やはり絶頂期と言えばヤクルト監督時代。
Aクラス:5回 Bクラス:4回 リーグ優勝4回 日本一3回
と9年間でヤクルトを常勝軍団に導いています。
阪神時代は良い成績は残せなかったものの、楽天時代には、弱小チームを再生させ、2009年にリーグ2位の成績を残しています。
監督引退後も、多くの書籍を出版し、解説者としても活躍されていますね。
2度結婚しており、2人目の配偶者が野村沙知代。間には息子・野村克則。
歴代名補手 野村克也の名言集
才能には限界がある。でも頭脳には限界はない。
テスト生から始まり、三冠王まで登りつめた野村さんらしい言葉。
努力に即効性はない。コツコツやるしかない。いつの時代にもいる一流選手と自分は何が違うのか。それを考えながらやるしかない。
決して天才的な能力があったわけではない野村さんはとにかく努力の人だったということが分かります。
気づくことのできる人は、夢や希望、向上心、自分はこうなりたいという思いを根っこに持っている人です。
これは、野球以外にも言えますね。
ちっぽけなプライドこそ、その選手の成長を妨げる。
これも野球以外にも言える。。
伸び悩んだり、才能の限界にぶつかったりしたとき、「もう駄目」だと諦めるか、「どうすればこれを突破できるか」を考えるか。一流と二流は、まさにそこでわかれる気がします。
これ、ものすごく共感できます。本当にこのわずかな差が人生を左右するのかも知れません。
私自身のバッターとしての才能は、はっきりいって二流でした。打率でいえば、いいとこ2割5分です。けれども、戦後初の三冠王をはじめとして残した結果は一流だと自負しています。なぜそんなことができたかというと、人の何倍も努力したからです。
自分自身の能力を理解した上で、徹底的に努力した。その結果、あれだけの功績を残している。なんだか野村さんの凄さを本当の意味で理解できたような気がします。
最後はこれです。
京都の片田舎にある無名校から、テスト生として入団した私は、最初から努力以外にこの世界で生きる術はないとわかっていました。だから連日連夜、誰よりもバットを振りました。3年目でレギュラー、翌年にはホームラン王になれたのも猛練習のおかげです。
どの世界においても、泥臭くのめり込むように努力する時期が必要なんですね。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回、お伝えした情報は、野村克也という人間が残した功績や生き方、名言のほんの一部。
ただ、その一部からも溢れる魅力がありました。
まさに「努力」の人。
王貞治や長嶋茂雄のようなキラキラしたスターではないものの、1人の人間、1人のプロ野球レジェンドとしての存在感は、2人をも上回るほど。
そして、学ぶべき部分が多くりました。
まだまだ元気にTVでボヤいてほしいですね!!
今回も最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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